ABOUT of プレミアムステージ株式会社 不動産賃貸業自主管理経営since1992|不動産成長戦略|不動産節税戦略


本当に大切なことは、いつも現場が教えてくれた。 すべての答えは、現場にある。そして、自分の心の中にある・・。

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1965年, "兵庫県" にて出生。
1989年3月, "立命館大学" 卒業。
1989年4月, "松下電器産業株式会社" (現、パナソニック株式会社) 入社。

1992年, 父の他界により、不動産賃貸業経営を引き継ぐ。
1995年, バブル期の相続を経験。
財務省との見解の相違を埋めるため奔走。相続問題解決に3年を要し、ようやく決着。

1998年, 結婚。
2002年2月, 松下電器産業株式会社の早期退職制度に応募し、末日退職。14年間のサラリーマン生活にピリオドをうつ。
2002年夏, 母他界。自身二度目の相続を経験。

2003年3月, 行政書士の資格をいかし、"樋口国際法務事務所" 設立。在留ビザコンサルティング専門事務所として、数多くの難関ビザ申請を許可に導く。
1992年より引き継いだ”不動産賃貸業経営”において、一部を2009年7月、不動産管理会社に管理委託。自主管理物件を運営しながら不動産管理会社との絆も深めていき、現在に至る。


【歴任役職】
プレミアムステージ株式会社 代表取締役(現在)
樋口国際法務事務所/樋口行政書士事務所 代表(現在)
兵庫県行政書士会阪神支部 副支部長(2011年)
関西日中平和友好会 理事(2010年)
えびす法務経営株式会社 代表取締役(2004年〜2009年)
えびす社長大学 会長(2009年)
早稲田セミナー 行政書士合格講座 神戸校専任講師(2006年,2007年)
株式会社アメリッツ 監査役(2005年〜)



樋口 龍司 Tatsushi Higuchi 
 ー プレミアムステージ株式会社 代表取締役 ー


子供の頃から我が強く、友達とよくけんかをした。
殴り合いのけんかはあまりしなかったが、意見の衝突から口げんかをすることが多かった。

小学生時代は、草野球に明け暮れた。ピッチャーやセカンド、レフトなど、いろんなポジションで野球を楽しんだ。
中学受験するも、受かるはずはなく、地元の公立中学へ進んだ。
そこでは卓球部に入部。20周ダービーが盛んで、1位以外は抜けれないルールだったため、30周走らされることもしばしばだった。
高校はあまりいい思い出がない。仲間にはめぐまれたが、あっという間に過ぎたという印象。

大学受験に失敗し、一浪する。予備校のプロの授業を初めて体験し、学問の素晴らしさを知る。(ほんとか?)
この一年だけは、よく勉強したと思う。

大学時代の4年間は、遊びに明け暮れた。友人との夜遊びとアルバイトに日々精進した。
当時よくやった遊びは、ビリヤード、ゲームセンター、パチンコ、麻雀、合コン、お酒、カラオケなど。やったアルバイトは、クロネコヤマトの引越スタッフ、灘神戸生協の配送センターでの商品詰め作業員、浜学園での塾講師、レストラン北山でのウェイター、新明和工業での工場スタッフ、レンタルレコードやさんでの店員、などなど・・。
麻雀はすこぶる弱く、いつもほぼ最下位。夜中の3時に罰ゲームで吉野家の牛丼を4人分買い出しに行かされた回数は、恐らく一番多い。

卒業後、パナソニックに入社。平成元年入社。言わずと知れた「平成バブラーズ」 何も考えずとも、どこにでも就職できた時代だった。例外にもれず、私も何も考えなかった。
成績が悪いのに入社したものだから、配属は希望通りにはいかず、いきなり子会社への出向配属で社会人生活がスタート。といっても、パナソニックは配属まで半年間研修があった。製造実習を1ヶ月半。販売実習を1ヶ月半。

販売実習は、気合いの足らない大阪組、約40名が選抜され、栃木県宇都宮市に左遷。寮での共同生活のもと、近くのナショナルショップ店に通った。
休日は、お店が休みとなる水曜日。ここぞとばかり、寮仲間の有志でレンタカーを借り、火曜の夜に寮を出発。富士山へのドライブ! 水曜の晩に寮に戻り、木曜日は出社。
そんなことを繰り返し、1ヶ月半はあっという間に過ぎた。

大阪に戻り、正式配属後の仕事は、自動車電装品の開発設計部署。2年目後半から、当時(今も)最も厳しいと評判のM氏が直属の上司に。かなり鍛えられた。
当時の自分の100倍くらい仕事が早く正確だった。どうやったらそんなになるのか必死で盗んだ。未だにM氏には追いつけていないと思う。

入社4年目。26歳のとき、父が他界。1年間の闘病生活の末、帰らぬ人となった。
ずっと親父に反発してきた人生だった。その反発する対象を失ったとき、父親というものの本当の偉大さに気づかされた。「自分が親になったとき、子供に対しては、親父のような生き様をみせてやるぞ。」そう思った。

入社7年目。30歳。自動車電装品開発商品を北米ビッグ3(GM、フォード、クライスラー)に売り込むための現地駐在要員として、私に白羽の矢がたった。当時、TOEICは300点代。お世辞にも英語圏での生活はできない。
「樋口! おまえはこれから1年間、一つの開発商品に没頭するんじゃなくて、この研究所の全商品を広く浅く見とったらええんや。それと、英語や。この2つを頑張れ!」
当時のK所長(部長)から言われたこの言葉は、今でも脳裏に残っている。

当時私は、母親との2人暮らし。まだ独身だった。今からアメリカデトロイトに駐在となると、最低5年と言われているから帰国は35歳以上。そして、日本には父と別れたばかりの母を一人残すことになる・・・。
組織(特にパナソニックのような巨大組織)においてはタブーとも言える、北米駐在候補辞退宣言をしてしまった。

それから6年。36歳のとき。会社が早期退職制度を発表。それに乗るかのように脱サラを決意。そのきっかけは2つ。
この年の春、母が緊急入院。手術当日、仕事の忙しさから、年休をとって病院に行くことができなかった。パナソニックという会社は、やる気次第でいくらでも大きな仕事ができた。しかし、いくらがんばっても決してほめられることはなかった。仕事自体はとても好きだったが、評価の不平等さが自分の肌にはどうしてもあわなかった。
もう一つの理由は、自分の夢。もともと独立心が旺盛だった。20歳代のとき、パナソニック社内のオープンチャレンジ制度(配置換えを所属人事を通り越して立候補する制度)に2度も応募した前科者。もちろんどちらも不合格だった。パナソニックが認めへんねやったら、自分でやるしかない。やらせてくれ! そう思った。

母の闘病生活を支えながら、パナソニックに退職宣言をし、夜は早稲田セミナーに行政書士試験合格講座を受講しにいく日々が続いた。
2002年10月。試験後の自己採点。140点満点で86点(6割)以上が合格。自己採点結果は、104点だった。
行政書士試験日の2ヶ月前。2002年8月。母は帰らぬ人となった。闘病生活は1年間。10メートル先のトイレに行くのに30分かかる。自宅ベッドの横に添い寝をし、トイレへのサポートや、下の処理などをやってあげた。

人間は、両親のおかげでこの世に生を受ける。決して自分だけの力で生まれてきたのではない。自分が自分らしく自分の人生を全うすることこそが、自分を産んでくれた両親に対する最高の親孝行である。そのとき、そんな風に思った。

どんなに苦しいことがあっても「死んだらあかんのや!」
常に未来は希望に満ちあふれている。
人生はすべからく自分の想い通りになっていく。


親から引き継いだ不動産賃貸業経営・・。
平成元年。親父が亡くなる3年前の春。入社1年目、23歳のときのこと。親父に呼ばれ、「この契約書にサインして、実印押しとけ〜!」 それは、新築賃貸不動産の建築請負契約書へのサインだった。あのとき、親の後を継ぐ長男としての最初の責任の第一歩が事実上始まったのだった。

夜逃げする賃借人を、会社の休日と夜中を使って追いかけたこと。
供託する賃借人に対して、何度も何度も話し合いの場をもったこと。
賃借人の不注意で起こってしまった夜中の水漏れ事故で、見事に1500万円だまされてしまい、事業主としての脇の甘さを思い知らされたこと。
物件建設現場で、近隣住民に○○○されたこと。

その他、いろんなことを、この20数年の実務の現場を通して、体験させてもらってきた。

亡くなった両親に教えてもらったこと。それは、『口は1つしかない。でも、足は2つ、目も2つ、鼻の穴も2つ、手も2つ、耳も2つ・・・。口より、足が大事なんやで! どんなにすごいことを口でしゃべっても、足が動かんかったら何の意味もあらへんのや。」

どんなに小さい仕事をするときでも、私の根本は ”現場主義”。何冊本を読んだとしても、最後はそれが本当かどうかこの眼で確かめ実行するまで一切信用しない。


パナソニックで鍛えてもらった「諦めない気持ち」
父に教えてもらった「男は背中で生きるんや」
母に教えてもらった「人間は感謝が大切やで」
親友に教えてもらった「責任の中に優しさがある」

みんなに感謝する日々。

まだまだ人生これから。
育ててくれたパナソニックのために、両親のために、家族のために、親友のために、そして、今まで知り合わせてもらった全ての方のために。今日も私は前を向いて歩いていきます。

本日も生涯の一日なり。
皆様、どうぞ宜しくお願い致します。